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すべては遺伝子なのか

そもそも物事の咀嚼に長い時間を要する人間であり、それこそ牛の反芻のような内的プロセスを何度も経た上でないと自分の意見を文章としてアウトプットできない。非効率と言われればそのとおりで、実際そうなのだから仕方がない。

長らく反芻していた物事に「遺伝子」がある。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(The Selfish Gene)の要旨は「個体は遺伝子の運搬手段にすぎない」ということであり、この説を噛み砕いて説明したのが竹内久美子氏の『そんなバカな!―遺伝子と神について─』である。7年ぐらい前に読んだときは確かに衝撃的だったが、一方で短絡さを感じたことがこの反芻の発端となっている。

遺伝子とは、どうやら「情報」のようである。情報は結局「A」「T」「G」「C」という4種の塩基の順列・組み合わせである。「何だかよくわからない」あるいは「何だそれだけのことか」と思うのが大方の人の正直な意見だろう。

人間とチンパンジーの遺伝子は99%一致するという。しかし、作り上げた世界にはあまりにも大きな違いがある。ATGCの配列はほぼ同じなのに、これだけ異なる世界に生きるのはいかなる理由からなのか、皆目見当がつかない。つまり、「すべてが遺伝子のなせるワザだ」と言ったところで、むしろその遺伝子研究が進めば進むほど、説明できない事象がそこここに見受けられてしまうのである。

また、知識や経験による行動の変化をどう説明するのだろうか。これらの影響で遺伝子の配列が変わるわけではない。しかし、私たちは常に知識や経験によって変化している。遺伝子論の側からは「1,000年とか10,000年とかの長いスパンで見れば何も変わっていないんだよ」と反論されるかもしれない。しかし、伝説上の鶴亀でもあるまい、そのような長い期間生きた人間をついぞ知らないし、あるいはその論拠を歴史に求めるとしても、やはり人間とチンパンジーの作り上げた世界の違いを遺伝子だけでは説明できないのではないか。

養老孟司氏によれば、その違いは「脳」が生み出したものである。『あなたの脳にはクセがある─「都市主義」の限界─』では、少なからぬ部分が遺伝子論に対する疑問と反論に割かれている。たとえば次のようにだ。

その脳を決定しているのは遺伝子である。そういう反論が予想されるが、アリの場合にはそれを認めてもよい。しかしアリといえども学習をする。ミツバチであれば、さまざまな学習をすることも、年齢によって行動が違うことも、すでにわかっている。そうした変化は脳の変化であって、遺伝子の変化ではない。ヒトを考えれば、遺伝子と脳の乖離が昆虫の場合よりはるかに大きくなっていることは、もはや一目瞭然であろう。(p.198)

前々から思っていることに、「人間は環境適応性が極めて高いとはいえ、たとえば2,000年前に生まれた赤ん坊を現代に連れてきたら、きちんと適応して生きられるのだろうか」というのがある。

たぶん大丈夫だろうと思う。江戸時代に生まれた赤ん坊であればなおさら大丈夫だろう。願わくは父母を「父上、母上」と呼んで欲しいが、決してそんなことにはならない。年頃になれば携帯電話だって使いこなすし、渋谷や原宿にだって行く。ある日、「実はお前は江戸時代に生まれたんだ。お武家さんの次女だったんだ」と深刻な顔で打ち明けたところで全く相手にされないだろう。「パパ、そんなことより新しい携帯が欲しいんだけど」。

確かに遺伝子さえ同一であれば、脳は(その生命が原初的な段階にあれば)いくらでも環境に適応しそうである。そんなことを考えていると、ほとんどすべての議論がそうであるように、結局は共通点を強調するか相違点を強調するかの違いにすぎないように思えて、そろそろ食事にしようかとなってしまう。

Posted on 2005-09-06T23:15+09:00 | Category: 身辺雑記

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