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よい文章・悪い文章

たまに「よい文章と悪い文章の違いは何ですか?」という質問を受ける。私の回答は「機能文か観賞文かで異なりますが...」という前置きからはじまる。機能文は論文やレポートなど読み手を説得するための文章、観賞文は小説やエッセイ(随筆)など主に娯楽に供される文章だ。

どちらの文章にも「冗長」「曖昧」などよく知られた禁忌(きんき)が当てはまるが、たとえば機能文で重視される「結論は最初に」というルールは観賞文ではそれほど重要ではないため、両者を一様に扱うのは難しい。

ところで、私は文芸評論家でもなければ、文章指導の仕事をしているわけでもない。プロ向けの文章教育を受けたこともなければ、教えを説いたこともない(プロの観賞文は「常識という棒にヒモを括りつけて、自分をどれだけ遠くに飛ばせるかが問われる」と考えているが、それすら漠然とした感覚的な理解でしかない)。あくまで「普通の人がWeb上で魅力的な文章を書くにはどうしたらよいか」に興味がある。

Web上での機能文の書き方については拙著『伝わるWeb文章デザイン100の鉄則』を参考にしていただくとして、以下、観賞文を前提に、私が重要だと思う5つのポイントを説明したい。

1. タイトルが具体的である

「楽しかったー」「えっ?」「ふぃー」など、具体性のないタイトル(例:ブログのエントリー名)が大嫌いである。タイトルというのは看板であって、読み手の取捨選択の大きな基準となるものだ。具体性のないタイトルで読み手の取捨選択の機会を奪うのは、私には横暴としか思えない。そのようなつもりはなく、単にタイトルを考えるのが面倒くさいというならば、それは知的怠惰でしかない。

余談だが、書くに窮してか「疲れた」「眠い」といったブログのエントリー名をよく見掛ける。それを見た読み手は10倍疲れて眠くなるし、「だったら書くな」というツッコミ以外のしようがない。疲れたこと、眠いことを文章で率直に表現するのは構わないとしても、何の工夫もなくそのままタイトルにするのはよくない。

2. 情景が目に浮かぶ

その文章で書かれている状況が、読み手にありありと伝わるかどうかということ。具体的には、その情景が読み手の目に浮かぶかどうか。読み手のイメージを喚起するかどうかは、文章の魅力の高低を計るのに極めて重要である。

たとえば「明治神宮に初詣に行ったら混んでいた」とだけ書いたのでは、読み手は情景が上手くイメージできない。「砂ぼこりで前が見えないぐらいだった」「押し合いへし合いしてやっとの思いで鳥居をくぐった」と書けば、読み手は混雑具合が具体的にイメージできる。「混んでいた」という事実だけでなく、そのときに見えたモノや感じたコトを文章に織り込むとよい。

3. 抑制的である

淡々としてクールな文章であるということ。次の文章は、ある女性タレントのブログからの引用。

☆A HAPPY NEW YEAR☆
新年 あけましておめでとうございますっ☆♪
2005年だ、いえ~い(Λ。Λ)v
おせちだ、わーい(^▽^)
お年玉は、な~い(>_<;)・・・・・もう、もらえる歳じゃないよね(^^;)
年賀状、何枚くるかな?ウキウキ♪

私はこのような文章を目にすると、脱力して10分ぐらい呆(ほう)けてしまう。「いえ~い」も「わーい」も「ウキウキ」も、それを直接言葉にした時点で陳腐になってしまう。

喜怒哀楽も情緒も孤独もナンセンスも、ただ淡々と書くべきだと思う。観賞文では感情を率直に出したほうがよいが、これは擬態語や擬声語に頼ることとイコールではない。照れず気取らず卑屈にならず、自分を第三者的な立場から見つめて突き放して書くことが、文章の品格を保つのに重要である。

文章は他人が目にした時点で自分の手を離れて他人のものとなる。自分の感情を率直に表現しながらも、抑制的に(感覚的には「さっぱりした」「冷めた」感じで)書くことで、自分の文章を他人のなかにスムーズに取り込んでもらえる。特に Web というメディアでは、顔文字や(笑)などが多用される傾向があるが、頻繁に使うと独りよがりで軽佻浮薄な印象を読み手に与えてしまうので注意したい。

4. ユーモアがある

文章にユーモアを折り込んで、読み手に笑みを与えるということ。微笑でも鼻笑でも苦笑でもよい。アインシュタインの言葉に唯一の救いは、ユーモアのセンスだけだ(ジョリーメイヤー・ジョン P. ホームズ 編、ディスカヴァー21編集部 訳『アインシュタイン150の言葉』ディスカヴァー・トゥエンティワン、1997年、p.115)というのがある。喜劇はもちろん、悲劇にこそユーモアが求められるのだと思う。

とはいえ、ユーモアは行きすぎれば作為が目立つし、踏み込みが足りなければ理解不能になってしまうので、サジ加減が難しい。

また、読み手との信頼関係がどのぐらい構築できているかという問題もある。身近な読み手(知人・友人や共通の趣味を土台にしている人など)しか想定しないのであれば、躊躇なく思いきり針を振ることができるが、多数の読み手を想定するとなれば、ミドルレンジ(中間層)をイメージしてサジ加減する必要がある。家庭料理とレストランの料理が異なるように、特定の人の味覚に合わせるか大勢の味覚に合わせるかで「どのような味付けが許されるか」が変わってくる。

世の中のあらゆる物事がニッチ化しているので(特にWebというメディアではそう)、屈折したユーモアやコアなジョークが成立する余地は大きいが、いずれにしても読み手の知識・教養レベルなどを考慮して、上手くサジ加減をしながら文章を書く必要がある。

5. 適度に不親切である

読み手に知的満足感を与えるには、1から10まで懇切丁寧に書かず、8ぐらいで寸止めしておくのがよい。残りの2は読み手に埋めてもらうのである。特に知識・教養レベルの高い読み手はクドクドとした説明を嫌う傾向があり(自分のレベルが低く見積もられたように感じるため)、読み手が想像によって埋める余地を与える文章がよい。

私はこのことを考えるとき、いつもオセロを思い出す。あるいは将棋など他のボードゲームでもよい。一方が圧倒的な優勢というワンサイドゲームは退屈である。どちらが勝つか負けるかわかならい、せめぎ合いの局面にこそ面白味がある。文章も書き手と読み手のせめぎ合いであり、適度に不親切に書くことで、拮抗した局面を作り出すことができる。

原則として書き手はその内容を自由に規定できるという点で有利であり、読み手は書かれた内容しか読めないという点で不利である。Webというメディアによって、読み手にも大きな権限が与えられるようになったが(例:ブログのコメントやトラックバック)、読んだ内容を改変することはできない。さまざまな場面で、ひとりの人間が情報の受発信者を兼ねる機会はあっても、個々の文章は書き手が発信者、読み手は受信者という構図に変わりはない。

4. で書いた「ミドルレンジ」をどうイメージするかで、8でいいのか、それとも7にするか9にするかは異なるが、自分でやや不親切と思うぐらいが、おそらくは一定レベル以上の読み手を満足させることができるだろう。

* * *

なお、本多勝一氏の不朽の名作『日本語の作文技術』(朝日文庫、1982年)の「第8章 無神経な文章」にも、よい文章・悪い文章を見分けるヒントが書かれているので、興味のある人は参考にしてほしい。

Posted on 2005-01-08T15:30+09:00 | Category: Webライティング

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