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2003年12月

Web標準準拠の重要性

[スクリーンショット: World Wide Web Consortium (W3C)®]Web標準(Web Standards)準拠の重要性が指摘されて久しい。だがその理由をWeb上で探してみても、断片的な説明しか見受けない気がする。

とはいえ、私もWeb標準の大切さを最近になって考え出したところだ。これまであまり真剣に考えたことはなかったし、当然のこととして漠然と受け入れてきた。

Web標準の最たるものは、W3Cの「勧告」(Recommendations)などの技術仕様だ(「勧告」という訳はあまり適切でないと思うが、大方でそう呼ばれているので仕方がない)。

国内にも総務省の「電気通信アクセシビリティ指針」 などがあるが、それはまた別の機会に論じるとして、ここではW3Cの技術仕様を想定して、Web標準準拠のメリットについてまとめてみよう。

1. ソースの合理性

何をもってソースを合理的とするかは、Web標準への準拠度が決める。Web標準に準拠し、正しい文法でソースを記述すること、つまりソースの合理性(Rationality)は、他のメリットの基礎ともなる重要な考え方だ。

ブロークンイングリッシュでも意思は伝わるが、正しい英語のほうがよい。Webページも同じで、間違った文法でも意図したとおり表示されることがあるが、正しい文法のほうがその確率が高いのはいうまでもない。

2. ページの軽さ

Web標準に準拠したほうが、往々にしてページが軽い。個人的な感覚だが、ファイルサイズが20~30%ぐらいはカットできる。第12回 軽いページはもういらない? でも書いたとおり、ソースを合理的に書けばシンプルになるし、シンプルなページは自然と軽くなる。

3. ブラウザ(ユーザーエージェント)の安定した動作

現在のメジャーブラウザ(Win IE 6、Mac IE 5、Netscape 7、Opera 6など)は、Web標準をかなりの程度サポートしている。見過ごせないバグ(不完全なサポート)もたまにあるが、ノーマルなかたちでWeb標準に準拠する限り、大きな支障はないだろう。

Web標準に準拠したかたちでソースを書いたほうが、ブラウザは安定して動作するといえるし、各ブラウザがWeb標準に収斂しつつある現在、ますますその傾向が強くなっている。

4. 共用性・汎用性

たとえば文字を太字にするのに、ある人はb要素を使い、ある人はstrong要素を使い、ある人はCSSfont-weightプロパティを使うのでは、複数人管理に適さない文書となってしまう。

Web標準では、意味として重要であればstrong要素を、単なる脚色であればCSSを使うことになっている。Web標準を統一のルールとして複数人がきちんと守ることで、文書の最低限の共用性(Interoperability)と汎用性(Generality)が担保される。これにより、管理・維持コストの低下など、副次的な効果も期待できる。

5. アクセシビリティ

Web標準に準拠したページは、様々なユーザー環境に適合しやすい。数年前まではそういい切れない部分もあった。クロスブラウザを考慮して自制しながらページ作りをするか、ブラウザごとに複数のページを用意するという手間があった。

だが今は標準化が相当進んでおり、上記のような苦労は少なくなったし、安心してWeb標準に準拠できるようになった。むしろWeb標準に準拠したページでないと、視覚向けブラウザだけでなく聴覚向けブラウザも含めて、ユーザーエージェントが適切に動作しない恐れがある。

このような流れは、通常のWebページだけでなく、携帯サイトなどあらゆるWebコンテンツについていえる。

2003-12-26T20:22+09:00 | Web標準 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

グッドFlashデザインサイト

私が今年見た中で、Flashデザインが特に優れているサイトを紹介しよう。なるべくいろんな国からピックアップした。

すべてのサイトとも「見る」ではなく「観る」感覚なので、お楽しみいただければと思う。

[スクリーンショット: minnim (Spain)]minnim (Spain)
実際のマウスの動きに感応してディスプレイのマウスアニメが、さらに緑色のモニターの中のカーソルアニメが動く不思議な感覚。
[スクリーンショット: Division Lab Studios (US)]Division Lab Studios (US)
デザイン、サウンド、構成、操作性、すべてがハイクオリティ。パネルアクションが楽しく、コックピットにいるような感覚。
[スクリーンショット: MX COMPONENTES ESENCIALES (Spain)]MX COMPONENTES ESENCIALES (Spain)
Mac&Flashのインターフェイスをモデルにデザインしており、爽快でキレのよいアクションは見ているだけで楽しい。
[スクリーンショット: KCO (Japan)]KCO (Japan)
globe KEIKOソロ・プロジェクトのオフィシャルページ。Flashが壁紙風に表示される点、音質がとても高い点に驚かされる。
[スクリーンショット: Chihwaseon (Korea)]Chihwaseon (Korea)
大きな「筆」がところせましとダイナミックに動き回る。その滑らかで官能的なモーションは時間がたつのを忘れさせる。
[スクリーンショット: Milla und Partner (Germany)]Milla und Partner (Germany)
各コンテンツごとに異なるオブジェがさまざまなアクションを見せる。規則性があるようなないような、奇妙な感じ。
[スクリーンショット: KeiDesign (Italy)]KeiDesign (Italy)
すべてのコンテンツが花の写真を背景に使った大胆なデザイン。シンプルで無駄がなく、不要なものをすべて削ぎ落として作ってある感じがする。

2003-12-23T12:26+09:00 | 注目サイト/ソフト | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

地図が読めない男

[写真: トワイライトゾーン]少し前、『話を聞かない男、地図が読めない女』(アラン&バーバラ・ピーズ 著、藤井 留美 訳、主婦の友社、2000年)という本が流行した。

だが私は、圧倒的に「地図が読めない男」なのだ。

先日、赤坂にボサノバを聴きに行ったとき、地図を持っていたにも関わらず、道に迷って40分ぐらいロスしてしまい、約束の時間を大幅に遅刻した。距離からして、普通の人なら徒歩5分の道のりだったろうか。

道中、警官に2回ほど道を聞いたが、いまいち要領を得ない。とつ迷いつ何とか近くまで行ったものの、とうとう店が発見できず、友人に携帯電話でガイドしてもらい、結局外まで迎えに来てもらったという始末だ。

このような迷子話は枚挙にいとまがない。よほど行き慣れたところでない限り、8割ぐらいの確率で道に迷う。事前に場所を調べて、きちんと地図を持っていくのだが、どうせ読めないのだから意味がないようだ。

デパートの地下(デパ地下)が好きでよく行くが、そこでも迷う。目的のショップがなかなか発見できない。同じところをグルグル回っているうちに、ある童話の虎のように溶けてバターになってしまいそうになる。

今は昔と違って、MapionMapFan Webなどで詳しい地図情報が無料で見られる。独自の地図をWebで公開しているショップも多い。でも、私がその恩恵にあずかれることはほとんどない。

2003-12-19T23:35+09:00 | 身辺雑記 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

ブログが流行している理由

[写真: とある一室はクリスマスムード満点]ずっと不可解に思っていた。「ブログ」(Webブログ)が注目されていることを。

というのも、これまでWebで公開されてきた「日記」とどう違うのか理解できなかったからだ。定義上も「ブログ」と「Web日記」はほぼ同義に扱われているようである。

旅行のときにつける日誌を「トラベルログ」(travel log)という。所感や記録を綴るだけで何にでも「ログ」という言葉がつけられるから、言葉自体にさしたる問題はないだろう。むしろ「ブログ」に付帯するイメージを思い浮かべてみると、おぼろげながら見えてくるものがある。

第一に「ツール」だ。Movable Typeやblosxom、iBlogなどの高機能なWebログ生成ツールが注目されているが、それら新たな技術に対する好奇心が垣間見える。

第二に「省力化」だ。ツールを使えば、通常のWebページのように(X)HTMLベースでログを書くのではなく、CGIXMLベースで処理を自動化したかたちでログを書くことができるということ。

第三に「コミュニティ化」だ。ブログコミュニティとしてはアメリカの「Blogger」(後述)や「Livejournal」が有名であるが、日本でも雨後の筍(たけのこ)のようにWebログ・コミュニティが誕生している。

アクセス数の少ない個人サイトでブログを公開しても、読者数は限られているし、リアクションはメールなど間接的なかたちで寄せられる。ツールの中には、ナビゲーターやレス機能などコミュニティ化のための機能を備えたものがあり、読者数を増やし、直接的なリアクションが期待できるということ。

第四に「ジャーナリズム化」だ。ブログは元々、社会問題に対する個人の意見を発信するためにアメリカで流行し出したのもので、メールマガジンと連携させたり、リンクリスト(参考になったサイトや記事へのリンク)をつけたりと、単なる個人の心情の吐露ではなく、「社会情勢」を考察の対象としている点が旧来のWeb日記と一線を画すという。

モノを表現し、多数の人々に読んでもらうのは元々容易ではないのだから、第一、第二、第三はWeb日記との本質的な差異を表すものではないだろう。注目すべきは第四のポイントである。

どうやらアメリカでのブログ流行の契機となったのは、1999年のBloggerの登場と、2001年の「9.11」(Nine-Eleven)、いわゆる同時多発テロのようだ。「9.11」直後、自身の体験を綴ったレポート、安否に関する情報、テロの悲惨さを伝える画像や動画がブログで公開され、「warblog」(ウォーブログ、戦争に関するブログのこと)なる言葉まで生まれるに至った。

このようなアメリカの事情を知るにつけ、ますます日本のブログブームに対して冷ややかな視線を投げかけたくなるが、本コラムもブログという範疇に入るといえば入るから、ここでは深入りしない。

個人的な意見だが、日本でのブログブームは、何も上記のようなアメリカからの影響だけでなく、2つのサイトによってその下地が作られていたように思う。「ほぼ日刊イトイ新聞」と「2ch」だ。

1998年に糸井重里氏が開設した「ほぼ日」は、それまで一部の素人の情報発信の場だったWebを、プロアマ問わず個人が表現する場として認知させたし、「2ch」は(質はともかく)個人が積極的に発言できるコミュニティを提供し、ある意味でブログの代わりを果たしてきたといえる。

最近、ハーバード大学ロースクールにWeblogs At Harvard Lawというブログコミュニティができたし、日本にも日本ウェブログ学会なるものがある。Blogger開発元であるPyra Labs社はGoogleに買収された。何やら「blogosphere」(ブログの世界)という言葉まで定着しつつある。ブログがしばらく注目を集め続けるのは間違いないようだ。

だがここまで書いてなお、私はブログの必然性と必要性がはっきりと理解できずにいる。

追記 (2004-07-05)

その後、少し考え方を変えたのでありました。詳しくは忘れていたブログの本質参照。

2003-12-10T21:02+09:00 | ブログトレンド | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (3)

インターネット依存症?

[写真: 冬の午後。本とiPod]japan.internet.com「あなたも『インターネット依存症』かも?」という記事を読む。インターネットに過度に依存している人、インターネットなしには生きられない人が増えているとのことだ。

昔、テレビ依存症(中毒)という言葉が喧伝されたことがある。遡れば、仕事依存症(ワーカホリック)、アルコール依存症(アルコホリック)、薬物依存症(ドラギー、ジャンキー)などいろんな依存症があったし、今も依然としてあり続けている。

だが、それほど騒ぐことだろうか。確かに生活の中でインターネットの占める割合、果たす役割が格段に大きくなった。でもそれは役割のシフトと言うべきもので、長いスパンで考えてみれば特別珍しいことではない。

劇場や舞台、寄席やラジオからテレビへと大衆娯楽が移ったときは「一億総白痴」(大宅壮一の造語だと思う)と言われたし、連絡通信手段が訪問や手紙から電話に移ったときも「電話は安直にすぎる、電話は礼を欠く」と非難された。

新しい技術や新しい文化は、物珍しさからはじめ持ち上げられ、次にすべからく非難される。とすれば、インターネットも新しい局面に入ったということか。

私は仕事をする上でインターネットは欠かせないが、なければ生きられないとは毛頭考えたことはない。テレビはなくても暮らせる。ラジオも別に必要ない。本と音楽、それさえあれば時間は潰せるし、むしろそれしかない環境の方が快適ですらある。活字中毒や音楽中毒と言われればそのとおりだが、人は結局何らかの中毒を持たずにはいられないものだ。

インターネット依存症の症例は、Journal-izm「ネット依存症(アディクション)という名の病魔」に詳しい。各症状に共通するのは「他人とコミュニケーションを取りたい」という願望が強すぎる点である。少し敷衍すれば、「他人とコミュニケーションを取ることで、自分の存在を知ってもらいたい、自分を表現したい、自分がどれだけ必要とされているか知りたい」と言うことだ。

この記事は「自分を見失わない客観性が大事」と結んでいるが、それはどんなことにだって当てはまる。そんな言葉を持ち出しても何の解決にもならない。むしろインターネットで満足感が得られ、渇望感が満たせるなら、それもひとつである。

インターネット依存症のチェックテストとして、たとえばPeacemind.com「インターネット依存度チェック」GoisuNet「無料占い あなたのネット依存度チェック」がある。この種のチェックテストが得てして紋切り型で退屈なのは、いくら設問を変えても、結局は距離感を問うているに過ぎず、答えが透けて見えるからだ。

依存度が高ければ「節度をもって使いましょう、もっと距離を置きましょう」といった注意を受けるに決まっている。その類の言葉が何の解決にもならないことは、先に述べたとおりだ。依存度が低ければ「もっと活用しましょう、流行に乗り遅れないようにしましょう」と言われる。流行に乗るのが「善」で、流行に乗り遅れるのが「悪」と誰が決めたのか問い正したくなる。

そして「もっともっと時間を割いて、それに関する仕事ができるぐらいになりましょう」といった文言は、ついぞ見たことがない。「仕事にすればインターネットから自然と距離を置きたくなりますよ、ある種の現実逃避として、他のことに興味が向きますよ」と。むしろその方が効果があると思うがどうだろうか。

およそ依存症なるものは内なる「寂しさ」から生じる。私は「寂しさ」と「暇」には密接な関係があると思っている。仕事に依存すれば暇がなくなる。アルコールや薬物に依存すれば時間感覚がなくなる。

芸術家なりアーティストがアルコールや薬物その他に依存したり、異常に執着するケースが多いのは、きっと寂しいからであり、はた目からどう見えようと当人は暇で退屈しているのである。精力的に活動しているアーティストが半年なり一年なりの充電期間をたまに取るのは、あえて暇な状況を作り出しているのであって、単に疲れが原因ではないだろう。

そして昔の人は言った。「芸術は暇から生まれる」と。

2003-12-03T22:44+09:00 | ITトレンド | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

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