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2003年7月

そして寡占から独占へ

[写真: a street nearby my house]もうWebの世界は完全に、Microsoftのものになったのかもしれない。 というのも、IEのブラウザシェアが寡占を超えて独占状態になっているからだ。

私は、Netscape凋落、つまりIE独占化の分水嶺は、2000年にあったと思っている。Netscapeが大幅にシェアを落としたのが2000年だったからだ。ある調査では、2000年の年始(1月)は約15%あったNetscapeのシェアが、2000年の年末(12月)には約6%にまで落ちている。

実は、1999年11月時点ですでに、米連邦地裁の判決(Thomas P. Jackson判事)により、「Microsoftは独占企業」と事実認定されているのだが(ASCII24「独占企業”のレッテルが貼られたMS」参照)、末端のユーザーの隅々にまで具現化するには往々にしてタイムラグがあり、それが一応の完了を見るのは2000年だったと思う。

これは我々ユーザーから見れば、幸福であると同時に、ある種不幸でもある。

まず幸福な点は、Web運営者がクロスブラウザ(複数のブラウザで問題なく表示されること)に以前ほどセンシティブにならなくてよくなった点だ。

数年前までは、推奨環境として「IE 4.x以降またはNetscape 4.x以降」という注意書きをよく見掛けたが、今は「IE 5.x以降」と、IEしか考慮に入れていないサイトが多い。

逆に不幸な点は、ブラウザの選択肢がなくなったということだ。大衆消費社会を「消費対象の選択肢が数多くある社会」と考えてみれば、これは大いなる矛盾であり、悲しむべきことだろう。

先日、シャワーのヘッドが壊れたので東急ハンズ 池袋店にスパナを買いに行ったが、安いものから高いものまで、多機能なものから単機能なものまでたくさんあった。消費者はその中から、自分の用途に合ったものを自由に選べる。選択肢がたくさんある方が、おそらくは幸福だろう。

これは何の裏づけもない感覚的な意見だが、価値観が多様化すればするほど、消費対象は巨大な単数(と、弱小な少数のみ)で事足りる、ということではないだろうか。IE然り、マクドナルド然り、NTT DoCoMo然り。

ルソーの『社会契約論』。ミルトン・フリードマンの『選択の自由』。我々は自由を、多様性を、選択肢を求め続けてきたが、結局はひとつのモノに収斂してしまう生き物なのだろうか。それとも、時代のスピードと情報過多のせいで、忙しい生活を強いられているゆえの怠惰なのか。あるいは、天の邪鬼を気取るエネルギーも必要性もなくなったということか。

2003-07-28T09:28+09:00 | Webトレンド | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (5)

軽いページはもういらない?

軽いページはもういらないのだろうか。

これにはADSLや光ファイバーなどブロードバンドの急速な普及が関係している。今年2月時点で、ブロードバンド利用者数は1,600万人、インターネット利用世帯に対するブロードバンド利用比率は約40%に達したそうだ(WPC ARENA「インターネット白書」参照)。

私も遅ればせながら、今年5月にブロードバンドに加入した。IP電話も付いているそうだが、こちらはまだ使ったことがない。

では、ブロードバンドの利用比率が上がれば上がるほど、軽いページはいらなくなるのだろうか。いや、決してそんなことはない。ブラウザの安定した動作、アクセシビリティなどの点で、ソースはシンプルな方がよいからだ。

ソースを合理的に書けばシンプルになるし、シンプルなページは得てして軽い。つまり、ソースの合理性、シンプリシティ(シンプルさ)を追求していけば、自然と軽いページになるのだ。

2003-07-25T17:32+09:00 | Webトレンド | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

CSS再勉強

[写真: Industrial Design A-Z]ここ1ヶ月、ずっとCSSを勉強し直していた。

これまで当然のように使っていたCSSを、もう一度きちんと理解するためにだ。

今さらとも思ったが、勉強するのに早いも遅いもないし、思ったときに行動しないとダメな性格だとわかっているからだ。昔、父親から言われた「あとで」と「オバケ」は出たことがない、という言葉を思い出した。

また、CSSは義務?について、いろいろとご意見をいただいたこともきっかけとなった。

まずCSSの全般的な方向性を再確認するために、Accessibility Features of CSS(W3C注釈)を読み直した。そして、7月4日にその翻訳アクセシビリティに関するCSSの特徴を公開した。

翻訳作業と並行して、個人的なスタイルシートに関するメモやクリップの類をきちんとまとめ直した。自分では体系立てて理解していたつもりでも、たくさん穴があることに気づいた。

再勉強が一通り終わったので、その成果として、本日スタイルシート辞典を公開した。 (サイトのリニューアルにより、ディレクトリ構造および各コンテンツの中身が大幅に変わっています。)

CSS2で大幅に進化したスタイルシート。その進化を何に求めるのかと言えば、おそらく機能面、具体的にはプロパティやセレクタ指定のバリエーションが増えた点を強調する人が多いのではないだろうか。

でも私は「アクセシビリティ」、特に視覚障害者や色覚障害者がWebページを楽しむことができる機能を加えた点を強調したい。

結局は、アクセシビリティに関するCSSの特徴に書かれていることに集約されるし、ある意味、一周廻ってふりだしに戻った感はあるのだけど、その過程で得たものは決して少なくなかった。

そして今は、ある種の達成感と、少しの脱力感を覚えている。

2003-07-18T10:33+09:00 | 身辺雑記 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

論理性と創造性 2

[写真: blue glass](以下、前回からの続き)

文章で何かを表現しようとするとき、自分の無力さを痛感する。あまりに稚拙で、あまりに無駄の多い表現に。

Web上での文書は特にシンプルでなければならない。紙ベースの文書とWebベースの文書、どちらを長時間読み続けていられるかと言えば、紙ベースと答える人が圧倒的に多い。

日本語は新聞や本に代表されるように、基本的に縦書きにマッチするのに対し、Web文書は横書きということや、そもそもディスプレイは目に優しくないことが原因だろう。

あと、これは感覚的な問題だが、Webを見ているときは思考が断片的になりがちだ。興味のあるところだけを拾い読みする、また場面の切り替わりが早いという意味で、情報誌やテレビを見ている感覚に近いだろうか。

それだけに、Web上では論理的に長々と書かれた文章よりは、多少突飛でも短くてわかりやすい文章が求められる。作家ではなくコピーライターの表現力が求められるということだ。

だが、コンテンツの整理、グルーピングのためには論理的な思考や一貫性が求められるし、HTMLCSSなどのWeb技術をきちんと身につける際、論理性の欠如は非常に大きなハンディになる。なぜなら、Webとはこれらの技術の論理的な表現にほかならず、物事を論理的に考えられる人はこれらの技術の習得スピードが速いからだ。

論理性も創造性も、一朝一夕で身につくものではないし、ゴールがあるわけでもない。ただ、常に頭の中でこれら二つを意識し、他のサイトに比べて自分のサイトは論理的・創造的なコンテンツを提供しているか、していないとすれば、どのように工夫し、あるいはどのように自分の能力を伸ばして、比肩しうるコンテンツを提供できるかをイメージすることが重要だ。

ある日突然、論理性や創造性がグンと上がることはありえない。大切なのは、「読み上手の書き下手」ではなく、「読み上手で書き上手」になれるよう、論理的で創造的なコンテンツを見て学び、それを自分でも表現できるよう、いろいろとチャレンジしてみることだ。

2003-07-13T10:40+09:00 | 身辺雑記 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

論理性と創造性 1

[写真: grapefruit]今まで、「論理性」と「創造性」はトレードオフ(相殺関係)だと思っていた。でもそれは間違いだと気づいた。

論理性もかなりのレベルに達すれば、多分に創造性を帯びる。たとえばWebの論理であるHTMLCSSの習得レベルが高いことは、すなわち創造的なコンテンツを生み出す力、表現する力となるのだ。

それに、これは私の経験則でしかないが、すばらしいコンテンツを公開しているサイトほど、HTMLCSSの習得レベルが高い。完全にイコールではないが、相関関係は強い。

実生活で考えても、論理性の高い人ほど、人の気づかないことに気づく、人が上手く言葉で表現できないことを表現できる、自分が納得できないことを突き詰めて考える。これこそまさに創造力の源であり、あるいは人に創造的な印象を与える源だ。

論理性にとって重要なのは、数学的な思考だと思う。小室直樹氏の『数学嫌いな人のための数学─数学原論』(東洋経済新報社、2001年)で数百ページにわたって書かれている内容も、この一言に集約される。数学はもともと論理学から分化したものだから、当然といえば当然だ。

ただ、よく「ロジックとレトリック」と言われるように、論理性と、創造性にとって不可欠な「エンターテインメント性」はトレードオフする場合がある。たとえば同じ意味の言葉を、ある人がいうのと別の人がいうのとでは全く違う印象になる。その人の人柄や表情、イントネーションのせいもあるが、レトリックを上手く利かした表現かどうかということも大きく関係している。

ロジックは元来、非情なものだから、それを上手くオブラートに包んだり、洒落を利かせたり、比喩で表現したりと、レトリックを織り交ぜなければ、その言葉は人の心に届かない。「北風と太陽」のどちらか一方だけではダメで、時に北風、時に太陽であっても、通常は二つをバランスよくミックスしたかたちで表現しなければならない。

ロジックを追及していくと、レトリックなど無用の長物だと考えてしまいがちだし、それゆえ論理的な人からは冷たくて融通の利かない印象を受けるのだが、自分の頭の中でなく他人に何かを表現するときは、なるべくその人の心に訴えかけるように、レトリックで脚色する必要があるだろう。

よくいわれるように、レトリックには文学的な素養が必要だ。かといって、闇雲に読書をすればよいわけではなく、自分の気に入った表現を実際に自分の言葉として使ってみなければ、ある「壁」は破れない。「読み上手の書き下手」という名の壁だ。

(以下、次回に続く)

2003-07-12T09:42+09:00 | 身辺雑記 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

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